東に生駒山麓を望み、豊かな自然に抱かれたこの地域には、今から数万年前の旧石器時代から人々の暮らしが営まれ、縄文・弥生・古墳時代には100以上の集落や古墳が作られたそうです。
大化の改新以降、河内(かわち)平野の開発も進み、生駒山麓にあった入り江は、「草香江(くさかえ)」と呼ばれ、万葉集にも詠まれていたことから、その名は広く知られていたようです。
「八戸ノ里」駅と西隣の「河内小阪(かわちこさか)」駅間の北側には現在も「御厨(みくりや)」という地名があります。「御厨」とは、もともと朝廷や皇室に献上する魚や野菜類などを用意する土地を意味していたそうです。平安時代に、この地域が皇室領「大江御厨(おおえみくりや)」として成立したと言われています。
河内平野には、かつて南北に奔る大和川があり大雨の際などには幾度となく洪水をくり返していたそうです。そこで江戸時代、今米村(いまごめむら)の中甚兵衛(なかじんべえ)らが幕府へ請願し、川の付け替えが行われることになりました。その際、埋め立てられた旧川床や池、沼地は新田(しんでん)となったと言われます。なかでも大阪の豪商であった鴻池(こうのいけ)が開発した鴻池新田は最大の規模だったそうです。
開墾された新田では、木綿などが栽培され、東大阪の「河内木綿」は当時の一流ブランドとして、その名を広く全国に知らしめ、地域の発展の礎を築きました。 |